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神宮摂社・末社・所管社の歴史 その2~津長神社の歴史について~

津長神社は宇治今在家町に鎮座します。古くは「津長社」とか「津長大水神社」と呼ばれていました。
平安時代末期、現在の宇治橋前の饗土の地には二本桜があり、その下を経て津長に参拝するのが常でした。鎌倉後期の書物に「津長社は宇治郷に在り」とか「古名津長川原といふ」とあり、津長は地名で、往古不変の鎮座地です。ではこの地はどうして川原と呼ばれたのでしょうか。不思議です。
また『倭姫命世記』が伝える平安初期の『太神宮本記』によれば、第11代垂仁天皇26年に倭姫命が志摩国より還ります際、津長川原に御船を留め津長社をお定めになったことが記されています。
太古は、五十鈴川(御裳濯川)の支流として津長川(津長谷からの水流)が存在したと考えられますが、これを疑問視する近世の学説もあります。かつてこの場所に五十鈴川が流れていたのでしょうか。
ところで近世の絵図によれば、現在の今在家町は当時ほとんど農地でありました。
何故このような場所に津長神社がお祀りされていたのでしょうか。今回はこれらの解明に迫ります。

講師 音羽 悟(神宮司庁広報室広報課課長)

日時

12月 19日(木)                   13:30~15:00

参加費

会員850円     ビジター 1,350円

定員

30名

場所

五十鈴塾右王舎

伊勢神宮内宮の摂社で、内宮の神域入り口に架かる宇治橋から約北へ200mのところに鎮座しています。津長神社から20m先には内宮所管社の饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)があります。御祭神の栖長比売命(すながひめのみこと)は水神とされています。
その昔、五十鈴川の船着き場があり、津長原といわれており、志摩国から還ってきた倭姫命が船を留められ、津長神社を定められたと伝えられます。
太古は五十鈴川の支流として津長川が存在していたと言われていますが、近世の絵図では現在の今在家町はほとんど農地でした。
なぜ、このような場所に祀られたのか。音羽先生に教えていただきましょう。