
『「日本」に出会う』シリーズ第17回 伊賀の桜と社寺巡り
日本各地から地方色が失われています。
そして、季節の風情や味覚までも。
つまり、日本文化を構成する多様性が失われつつあるのです。
何をもって「日本らしさ」かというのも議論がわかれるところですが、五十鈴塾が注目する「日本らしさ」に神崎塾長と出会いに行ってみたいと思います。
回数を重ねると、次代に繋げなければならない何かが見えてくることを期待して、歩いて・見て・話しあってみましょう。
講師 神崎 宣武
(五十鈴塾塾長・民俗学者・神崎研究室室長)
令和3年3月30日(火) 8:00~18:00
「伊賀の桜と社寺巡り」
京都、奈良と境を接し、古代からその影響を受けた文化が発達してきた伊賀地方。
神社仏閣も由緒正しい歴史を誇っています。
今回はまず桜の寺として知られている射手(いて)神社を訪れます。
伊賀から京都に向かう伊賀街道のそばにあって、あの源義経が戦勝祈願をし、西行法師も訪れています。
参道脇の十三重塔は国の重要文化財です。
午後は奈良と伊勢を結ぶ初瀬街道の方に行き、国指定の重文の仏様が2体、県指定が2体も祀られている弥勒寺を訪れます。
ここはあの「ぶらタモリ」でタモリもきたお寺です。
つぎは境内に動物がたくさんいる宝厳寺、国指定の重文十一面観音さまのほか、石仏もたくさんあります。
時間があれば向かい側にある大村神社に立ち寄って地震除けの祈願をしてマスコットの可愛いナマズを買ってきましょう。
(歩きやすい服装で飲み物、おやつなどお持ちください)
射手神社
創祀年代は不詳。
一説には、天武天皇の御代、射手山に勧請された神社だといわれています。
武将の崇敬が篤く、『源平盛衰記』にも記載されているようです。
それによると、木曽義仲追討のため当地を訪れた源義経が、所願成就を祈請したといいます。
伊勢から伊賀を抜けて京都へ通じる道の途中にあるためか、西行法師も訪れ、
「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手」と詠んだといわれています。
弥勒寺
伝承によれば、聖武天皇の時代、天平8年(736年)に円了上人という僧が建立したといわれています。
創建当時は、弥勒仏を本尊として寺社領も百石を賜っていました。
その後、良弁(689年 – 773年)が大伽藍を建立、弥勒寺に薬師如来、一言寺に十一面観音、言文寺に聖観音、行者堂には、役行者倚像等を安置、盛時には仏塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧房・食堂の七堂伽藍を有する広大な寺院であったといわれるが、以来幾多の星霜を経て、多くの堂宇は、自然に荒廃しました。
現在の本堂は、昭和54年(1979年)に鉄筋コンクリート作りに改築された。
宝厳寺
創建は古く、文永四年(1267)、亀山天皇の勅願によって建てられました。
開基は承和5年(838)に真慧律師といわれています。
本尊子安地蔵菩薩は小野篁作で50年に一度のご開帳。
宝巌寺が、史料の上で最も古い歴史を披露するのは「伊賀史概説」に引用された「持戒清浄印明」のなかにある、「僧湛睿が、正和三年(1314)に伊勢神宮参拝の途次、阿保庄の地蔵堂に宿を借り、そのとき寺主だった玄海上人に持戒清浄の印明を授けた」、というものです。
ここに出てくる阿保庄の地蔵堂が宝巌寺のことで、つまり少なくとも鎌倉時代末の正和三年には存在していたことがわかり、青山町内でも古刹に数えられる寺院です。
地蔵堂の名は、宝巌寺が地蔵菩薩像を本尊としていたことから、この別称で呼ばれていたものと思われますが、周辺が地蔵信仰の中心地であったこともうかがわれ、地蔵形の石仏が多く山内にのこされていることも往時を物語っています。
前日、29日(月)の神崎先生の夜講座「旅する神々(終)仮面の来訪神~異界からの異相の神々は何をもたらすか」も、とても興味深いお話が伺えます。
ぜひご参加ください!
参加費 会員 7,500円 ビジター 8,000円
(バス代・昼食代・保険料含む)